おやすみプンプン論

プンプンは「幸せを感じ取る能力」の低さゆえに、不幸になっていきました。それがお母さんに愛されなかったからなのか、それとも生まれつきの脳の機能の問題なのかはわかりません。しかしプンプンは「自分で」不幸になったのです。


不幸な人ほどプンプンに共感できる、と言ってる人がいましたが、逆です。不幸な人ほどプンプンには共感できません。プンプンは幸せ、救い、好意に囲まれた人生を送っています。しかしそれをことごとく唾棄します。唾棄できるのは、「貴族」だからです。甘えられる余地があるということなのです。作中のプンプンは一貫して幸せでした。


どれだけ不幸な生い立ちの人であれ、「ありのままの自分」を否定・排除せず援助してくれる共同体や友人さえあれば、それは「本当の不幸」ではありません。幸せなんです。プンプンは「ありのままの自分」をずっと受け入れてもらっているのに、「早くありのままの自分を受け入れてくれ!」と思い悩んでいました。その空回りぶりと自己愛は芸術的ですらあります。


本当に不幸なのは南条幸です。本当に不幸な人間は、幸せ、救い、好意を唾棄できません。あれば力ずくでたぐり寄せ自分のモノにしようとします。無ければそれに向かい突進するだけです。可能な限り自己の人格や容姿を改造してまで。浅野いにおさんがこういう人間も描けることは凄いことだと思います。さっちゃんはこの作品の真のヒロインです。


田中愛子はダークヒロインです。プンプンは田中愛子を運命の人と見立てています。「自分だけが、愛子ちゃんを救えるんだ。愛子ちゃんだけが、僕を特別に見てくれる。」


愛子ちゃんも似たようなものです。「どこにでも居るような人には救って欲しくない。私を必要としてくれる人だけに救って欲しい。」そんな感じで超絶イケメンスポーツマン矢口先輩を振るのです。なんだか処女厨問題とも繋がる気がします。


共同体がある、という意味では愛子ちゃんは南条幸より幸せです。そこから救ってくれる特別な王子様を待ちわびてはいても、自分から抜け出そうとはしません。自己の変革も強要されないし、虐待という愛を受け続けている以上、わざわざ共同体から抜け出す必要性がありません。何からも追い立てられていないのです。


しかし10巻で、ついにプンプンは愛子ちゃんを閉じ込めているその共同体に向かいます。プンプンは愛子ちゃんを救えるのでしょうか・・・。


だいたい圧倒的他者不在のナルシストぷんぷんと、強大な愛の救いが必要な田中愛子が付き合っても上手くいくはずが無いのです。ぷんぷんに足りないものは南条幸が持っています。田中愛子に足りないものは太陽のような好青年、矢口先輩が持っています。しかしそれではハッピーエンド。そうはさせないよ、という浅野さんの意地悪さが光ります。


プンプンと愛子ちゃんが不幸なのは、しかも世の人々と比べて圧倒的に不幸なのは、「コイツはこの世に1人しかいないんだ。」「俺にとってはコイツは特別なんだ。」と見立てる対象を、他人ではなく自分にしてるからでしょう。そしてそれは不可能です。自己愛には限界があります。


プンプンは「自分」ではなく「愛子ちゃん」を愛せるのでしょうか。愛子ちゃんはちゃんと愛情を受ければ、自己愛から他者愛に簡単に変われると思うんですよね。どうなるのでしょうか。




この漫画を読んで最近の若者は〜とか語るのは無理。世の大多数の男はプンプンの気持ちはわからない。